赤坂氷川祭とは

今年の見どころ

 德川8代将軍吉宗公将軍就任300年を機に、戦後焼失した「宮神輿」を新調します。また、申年に合わせ、江戸から現存する江戸型山車「猿」も復元し巡行します。赤坂氷川祭の原型は、宮神輿と江戸型山車の連合巡行にあり、実にこの組み合わせは、明治以来約100年振りの復活となります。
 さらに、この祭礼を盛り上げるべく、俳優松平健氏が扮した徳川吉宗公、吉宗公出身の紀州和歌山からは、約400年続く「和歌祭」の隊列が、花柳界からは赤坂芸妓衆が附け祭りとして隊列に加わります。TBSや東京ミッドタウンなど、近代的な街並みを背景に、「江戸絵巻」が繰り広げられます。
 また、吉宗公ゆかりの紀州和歌山の食材を使い、赤坂の料理人たちが腕を奮う「食いしん坊将軍祭」も開催されます。
 氏子地域が一体となった近年では最大規模の祭礼となります。

◇ 祭礼の歴史

諸国御祭礼番附図 江戸時代の赤坂氷川神社の祭礼は、宮神輿二基を氏子赤坂二十一ヶ町の江戸型山車十三本が警固する形をとって神領内を巡行していました。その情景は神社拝殿に納められている【祭礼山車行列額絵(明治四十四年奉納・港区文化財指定)】(下図)に見ることができます。

 江戸で一番大きい祭礼は、山王日枝・神田神社の「天下祭」「御用祭」ですが、【諸国御祭礼番附図】(右図)によれば、赤坂氷川神社の祭礼は、それに次ぐ江戸(江都)で三番手、東日本で四番手に位置する規模のものでありました。

◇ 山車とは

 祭礼の際、山・鉾・人形・花などを飾り付け、牛で曳いたり、人が担ぐ屋台で、一本、二本と数え、山車の語源は、平安時代、大嘗祭の際に曳かれた標山(しるしやま)に由来し、神様の依り代や、山車の中心にあった鉾の上につけられた「出し」という竹の編み残された部分の名称に由来すると言われます。

 山車も神輿同様、単なるお祭りの道具でなく、神聖な神様の乗り物なのです。

 当祭礼の山車は、江戸型山車の中で最も知られる鉾台型山車で、二輪車の上に三層の構造物があります。この三層部分の最上部は人形の部分であり、次の層は飾り幕に取り囲まれた枠で、人形はこの二層目の枠内を上下できるように造られています。更にこの人形・飾り幕の部分は折畳まれた状態で、最下部の部分から人形が「せり出す」という、二段上下可変式のカラクリ(機構)をもつもので、二段の台の上に人形が座るようになっています。これは将軍の上覧に供するために江戸城の門を入るときの工夫であると言われます。つまり、城門をくぐるとき、人形をからくりで下げ、城門をくぐったあとで人形をせり出し、将軍に上覧頂く構造になっています。結果として当祭礼で、山車が江戸城に入場することはありませんでしたが、当赤坂氷川祭の祭礼で十三本もの山車を有し、規模が大きいものであったことは、吉宗公が敬神し、幕府の管理下にあった証なのです。

 

祭礼山車行列額絵