赤坂氷川山車の紹介

猩々(九代目市川團十郎)

○ 旧町会名:表傳馬町一丁目 現町会名:赤坂表一二町会

 人形は、明治の歌舞伎の人気俳優九代目市川團十郎が、「猩々」の能を豪華な装束をまとって舞っている姿です。かつては、夜と昼との二つの面を持っていたといわれています。
 飾り幕は、生地が白で、それに勝海舟が書いた字を刺繍しています。正面が「勝会」、側面が「氷川」「神社」、裏面が「明治二十年六月五日 表一氏子中」となっており、刺繍は縫秀の作といわれています。勝海舟は明治5年から、亡くなる同32年まで赤坂氷川に住んでおり、神社には勝海舟筆の扁額や掛け軸が所蔵されています。

○ 旧町会名:表傳馬町二丁目 現町会名:赤坂表一二町会

 鶏と猿は天下祭でも一番・二番をつとめ重視された主題です。小振りながら、赤坂氷川山車のなかでは唯一、上段に六角の朱塗りの高欄を持つ山車であったことが神社拝殿の絵馬から伺えます。
 飾り幕は、上段のものは緋色の一枚もので、六面それぞれに龍と波が刺繍され、下段のものは紫地に神社神紋である「左三つ巴」が銀糸で刺繍されています。2枚とも近年比較的良い状態で現存されていることが判明しました。
 人形は弘化2年(1845)の作と伝えられていますが、祭礼の折、「猿」がでると“荒れる祭り"となることが続いたため、明治33年初代の猿の頭を神社に奉納し、だし鉄 山本鉄之により修理されたものが現在に伝わる人形と言われています。

○ 旧町会名:裏傳馬町一丁目 現町会名:伝馬町町会

 近年の調査の結果、箱書きから弘化2年(1845)に、『頼義』の人形と同様、松雲斎(古川)徳山により作られたことが確認されました。徳山は、五月人形や山車人形づくりの名工として、天保の終わりから弘化・嘉永にかけて活躍しました。
 作例としては、栃木市倭町の嘉永元年(1848)の「静御前」が有名です。これは「山王祭」の九番瀬戸物町・伊勢町・本小田原町の山車を、明治7年(1874)に倭町が購入した人形です。千代田区四番町歴史資料館で公開された弘化4年(1847)の五月人形「菖蒲人形五人立」も完成度が高く、赤坂氷川山車『頼義』を含め、円熟期を迎えていた徳山の力量を示す資料としても貴重です。

頼義

○ 旧町会名:裏傳馬町二丁目 現町会名:伝馬町町会

 源頼義は八幡太郎義家の父親で、陸奥の安倍氏を討ち東国に源氏の地歩を固めた武将です。東国との深い関係や徳川将軍の遠祖だということで、頼義の人形が飾られました。鎧兜に身を固めて太刀を佩き、強弓を持った凛々しくもきらびやかな姿です。赤坂氷川山車では他には見られない唯一の武者姿で、製作者は五月人形の名手、松雲斎こと古川徳山、弘化3年(1846)に作られ、明治38年(1905)に久月によって修復されたといわれています。
 飾り幕は、朱の一枚の幕で、四面が孤立することなく岩と波とが刺繍され、続き模様となっています。波は金糸の刺繍、岩は黒糸の刺繍です。絵馬によると三層もある高い山車でした。

恵比寿

○ 旧町会名:田町一二三丁目 現町会名:赤坂見附会

 題材の関係から豪華な衣裳を必要としませんが、魚・波・水玉等の差し物は現在地に見られない一つの典型的山車の様式として貴重な存在です。人形は昭和初年作といわれています。
 岩座は姫小松荒彫り彩色、高欄は正面だけがわらび型。下部は通常この形式は人形岩座の部分に三〜四尺の束立箱仕立ての台があり、高欄は台上と平床の二段または平床だけの一段となっています。

神武天皇

○ 旧町会名:田町四五丁目 現町会名:赤坂田町三四五町会

 人形は、明治前半に古川長延が作、後の大正時代に村田正親・山本鉄之が修理をしたといわれています。箱書きには「大正四年参月吉日調百雲正山本鉄之作」と記されておりますが、近年になり明治の新聞に古川長延作の記事があり、新たな発見がありました。金鵄(とび)は光芒附で、弓は生木仕立、沓は藁束仕立て金箔捺しです。装束は、平成20年に岩槻の川崎人形にて新調しました。
 飾り幕には「田四五神武会」「大正四年四月」という文字と、鳳凰が止まる木として神聖視され、皇室の御紋である桐(きり)が刺繍されています。これは大正天皇即位を祝して製作されたものと考えられます。奇跡的にほぼ完全な状態で残されている幕です。

頼朝

○ 旧町会名:一ツ木・魚店・大沢町 現町会名:赤坂一ツ木町会

 江戸時代に舟月・玉山と並び称された、雛人形の名工 桃柳軒玉山こと、人形師孫平により、嘉永2年(1849)につくられた人形です。祭礼に間に合うように、前年の11月に注文を出し、高欄とともに53両2分で製作された、という詳細な記事が残っています。作者と来歴が分かる貴重な資料ですが、近年に修理、現代風の人形に生まれ変わっています。金箔捺し(白拍子用)の立烏帽子、狩衣に指貫を着け、虎髭等趣向を凝らしていますが、鎌倉幕府を開いたあとの姿を描いたものと思われます。
 上高欄、緋羅紗に猩々・飛鶴を描いた四面が一つの構図の四方幕、萌黄羅紗に雲に波頭を描いた下幕、浅黄色の揚巻(総角)が残っており、昔は3層であったといわれています。

翁二人立

○ 旧町会名:新町二三丁目 現町会名:赤坂新二会

 人形座に二つの人形がある、特異な山車です。「翁」の能を演ずる翁と千歳の人形で、かつては「翁」と「千歳」と呼ばれていました。
 千歳は豪華な能装束をまとい、翁の面を持っていて、翁は脇に控えています。文久3年(1863)の作といわれていまが、明治43年修理されたことが箱書きからわかります。能の翁は、「能にして能にあらず」といわれ、演劇性はなく、天下泰平・国土安全・五穀豊穣を祈願する儀式として、舞のみの「式三番(しきさんば)」で、現在でも祝賀などの能の最初に演じられます。
 飾り幕の上段は生地が朱で、舞鶴の図柄で一連となっています。下段の幕は生地が緑で、岩を茶で刺繍し、亀を黄で刺繍しています。上下合わせてめでたい鶴亀の幕となっています。

日本武尊

○ 旧町会名:新町四五丁目 現町会名:赤坂六七丁目町会

 様々な地域の山車に日本武尊の人形は多く見られますが、熊襲退治の女装の尊は珍しいようです。風俗画報所収の図を見た限りでは被衣を冠った牛若丸と見間違えるほどです。明るい表情で、視線も面白いです。嘉永6年(1859)の作(作者不明)といわれています。
 飾り幕は、割模様、一面ごとに図柄がおさまっています。上幕は、猩々緋枠内緑地雲竜縫取玉眼入り。一部は氷川神社拝殿に、額に入れて展示されています。下幕は、猩々緋牡丹に獅子、左下部に新町四丁目五丁目の縫取りがあります。人形心棒の差し代は非常に深く、新調時は笠鉾型ではなかったかと推測されます。